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東京地方裁判所 平成元年(レ)25号 判決

控訴人 今給黎喜久子

右訴訟代理人弁護士 村井正義

被控訴人 川部隆

右訴訟代理人弁護士 清見榮

主文

一  原判決を次のとおり変更する。

1  控訴人の主位的請求を棄却する。

2  控訴人の予備的請求に基づき

(一)  被控訴人は控訴人に対し、控訴人から金五〇〇万円の支払を受けるのと引換えに、別紙物件目録記載の建物を明け渡せ。

(二)  被控訴人は控訴人に対し、昭和六三年六月一八日から右明渡済みまで一か月金九万円の割合による金員を支払え

3  控訴人のその余の予備的請求を棄却する。

二  訴訟費用は第一、二審を通じてこれを三分し、その一を控訴人の、その余を被控訴人の負担とする。

三  この判決は仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  控訴の趣旨

1  原判決中、控訴人敗訴部分を取り消す。

2(一)  主位的請求の趣旨

被控訴人は控訴人に対し、別紙物件目録記載の建物を明け渡し、かつ昭和六三年六月一四日から右明渡済みまで一か月金九万円の割合による金員を支払え。

(二) 予備的請求の趣旨

被控訴人は控訴人に対し、控訴人から金三〇〇万円の支払を受けるのと引換えに、別紙物件目録記載の建物を明け渡し、かつ昭和六三年六月一四日から右明渡済みまで一か月金九万円の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

4  仮執行宣言

二  控訴の趣旨に対する答弁

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  本件賃貸借契約の締結

(一) 控訴人は被控訴人に対し昭和五五年六月二〇日、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を次の約定で賃貸し、これを引き渡した(以下「本件賃貸借契約」という。)。

期間 昭和五五年六月一二日から

昭和五七年六月一三日まで

賃料 一か月金八万五〇〇〇円

敷金 金一七万円

(二) 控訴人と被控訴人はその後、昭和六一年八月ころ賃料を昭和六一年一〇月分から金九万円に改定し、また期間を昭和六三年六月一三日まで更新した。

2  更新拒絶の通知

控訴人は昭和六二年六月一五日、被控訴人に対し本件賃貸借契約の更新拒絶を通知し、右意思表示はそのころ被控訴人に到達した。

3  正当事由

(一) 控訴人は次のとおり本件建物に居住する必要性がある。

(1) 控訴人の夫今給黎義之(以下「義之」という。)は新日鐡化学株式会社(以下「新日鐡化学」という。)に勤務し、控訴人及び二人の息子とともに同社の社宅で居住していたが、満五七歳を経過した昭和六二年一月一日をもって同社を退職し、六か月後の昭和六二年六月三〇日までに同社の社宅から立ち退くよう命ぜられた。現在、本件訴訟中ということで右社宅明渡を暫時猶予されているにすぎない。義之は昭和六二年一月一日付けで日鉄化工機株式会社に再就職したが、同社は新日鐡化学に比べて給与は少なく、社宅もない。

(2) 控訴人は左聴神経腫瘍の後遺症、残存腫瘍の再発のおそれがあるため現在経過観察通院中であり、平衡機能障害(歩行不能のため身体障害程度等級三級)として東京都から身体障害者手帳の交付を受けている。

また、控訴人は高血圧症、糖尿病、神経症性不眠、急性湿疹、股間皮膚炎(広汎)、網膜血管硬化症、老人性白内障、糖尿病性網膜症、左角膜混濁、急性骨膜炎及び潰瘍性歯髄炎で通院加療中であり、多額の治療費の出費を余儀なくされているのみならず、控訴人は角膜移植と瞼を閉じる手術のため、今後二五〇万円ないし三〇〇万円の手術料及び治療費を必要とするが、その費用の捻出に苦慮している。

さらに、控訴人の息子二人はともに独身で、将来の独立資金が必要であり、特に次男は低血圧症のため再度留年し、現在早稲田大学理工学部に在学中であり学費の支出を免れない。

以上のような理由で、義之が新日鐡化学から受領した退職金二〇〇〇万円も控訴人の手術料の返済、治療費、家族四人の生活費、次男の学費等に支出したため残りは一〇〇〇万円を下回っている状況で、控訴人らには他に住居を購入したり、借家を求める経済的な余裕がない。

(3) 義之及び控訴人の長男は東京都内の職場に勤務し、また次男は早稲田大学に通学しており、本件建物から離れ郊外に住居を借りることになれば、控訴人の家族四人中三人の通勤・通学に要する時間的損失が大きく、交通費の負担も過大なものとなる。

(二) 被控訴人の経済状態

被控訴人は一五年間ホテルオークラに勤務しており、相当額の給料を得ていると考えられるし、その退職金の前借り等により、他に借家を求めることは十分可能である。

4  仮に右3の事情のみでは、正当事由としては十分でないとしても、控訴人は被控訴人に対し、原審第三回口頭弁論期日(昭和六二年一二月一七日)に更新拒絶の正当事由を補完する立退料として金三〇〇万円を提供する旨申し出た。

5  よって、控訴人は被控訴人に対し本件賃貸借契約終了に基づき、主位的に(一)本件建物の明渡及び本件賃貸借契約終了の翌日である昭和六三年六月一四日から右明渡済みまで賃料相当額である一か月金九万円の割合による遅延損害金の支払を、また予備的に(二)控訴人から金三〇〇万円の支払を受けるのと引換えに、本件建物の明渡及び本件賃貸借契約終了の翌日である昭和六三年六月一四日から右明渡済みまで一か月金九万円の割合による遅延損害金の支払を各求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1のうち、(一)の事実は認める。同(二)のうち、控訴人と被控訴人が賃料を昭和六一年一〇月分から金九万円に改定した事実は認め、その余は否認する。

2  同2の事実は認める。

3  同3(一)の事実は不知。同(二)の事実は否認する。

三  被控訴人の主張及び抗弁

1  解約申入れの正当事由に対する反論

(一) 控訴人は、明渡請求の正当事由として自己使用の必要性を挙げるが、控訴人は被控訴人から本件建物の明渡を受けたうえ、これを売却して多額の利益を獲得しようとし、あるいは被控訴人を排除して他に賃貸することを企図しているものであり、自己使用の目的は認められない。

(二) 被控訴人の家族の本件建物居住の必要性

被控訴人の家族は被控訴人とその妻、いずれも独身の長男及び次男であり、この四人が本件建物に居住している。被控訴人の収入及び長男の収入を合わせても家族四人の生活を維持するのが精一杯であり、他に不動産を購入したり賃借したりする経済的余裕はなく、さらに長男龍彦が躁鬱病に罹患しているため転居困難であることからしても被控訴人らにとって本件建物は生活維持のため必要性がきわめて高いものである。

2  更新の合意

被控訴人と控訴人は昭和六一年八月ころ、賃料を昭和六一年一〇月分から金九万円に改定した際、昭和六三年一〇月以降も賃料を金一〇万円に改定したうえ相当期間本件賃貸借契約を存続させる旨合意した。したがって、請求原因2記載の控訴人の更新拒絶の通知は効力が発生しない。

四  抗弁に対する認否

いずれも否認する。

第三証拠《省略》

理由

第一主位的請求について

一  請求原因1について

1  請求原因1(一)の事実は当事者間に争いがない。

2  請求原因1(二)について

(一) 請求原因1(二)のうち、控訴人と被控訴人が賃料を昭和六一年一〇月分から金九万円に改定した事実は当事者間に争いがなく、《証拠省略》によれば、昭和六一年八月ころ、控訴人と被控訴人が賃料を改定した際、本件賃貸借契約の契約期間を昭和六三年六月一三日まで更新したことが認められる。

二  請求原因2について

請求原因2の事実は当事者間に争いがない。

三  正当事由の存否について

1  《証拠省略》によれば、(一)義之は新日鐡化学に勤務し、控訴人及び二人の息子とともに同社の社宅で居住していたが、満五七歳を経過した昭和六二年一月一日をもって同社を退職し、同社の規程により六か月後の昭和六二年六月三〇日までに右社宅から立ち退くよう命ぜられたが、現在、本件訴訟の係属を理由に右社宅明渡を暫時猶予されていること、(二)義之は昭和六二年一月一日付けで日鉄化工機株式会社に再就職したが、同社の給与は手取り月額二八万六〇〇〇円余りであり、社宅はないこと、(三)控訴人らにとっては本件建物が唯一の持ち家であり、他に居住場所を求めることになれば、多額の支出を余儀なくされること、(四)控訴人は左聴神経腫瘍の後遺症、残存腫瘍の再発のおそれがあるため、現在経過観察通院中であり、平衡機能障害(歩行不能のため身体障害程度等級三級)として東京都から身体障害者手帳の交付を受けていること、(五)控訴人は高血圧症、糖尿病、神経症性不眠、急性湿疹、股間皮膚炎(広汎)、網膜血管硬化症、老人性白内障、糖尿病性網膜症、左角膜混濁、急性骨膜炎及び潰瘍性歯髄炎で通院加療中であり、これに相当額の治療費を出捐していること、(六)控訴人は角膜移植と瞼を閉じる手術のため、今後二五〇万円ないし三〇〇万円の手術料及び治療費を必要とすること、(七)控訴人の息子二人はともに独身で、特に次男紀之は低血圧症のため再度留年し、現在早稲田大学理工学部に在学中であり学費の支出が必要なことの各事実を認めることができる。

なお、被控訴人は、控訴人が本件建物を売却して多額の利益を獲得し、あるいは他に賃貸する目的で明渡を求めており、控訴人には自己使用の目的がない旨主張するが、控訴人が本件建物を他に転売ないし賃貸する意図を有していると認めるに足る証拠はない。もっとも、昭和六一年八月当時、控訴人が被控訴人に送付した手紙である乙第一号証には、控訴人が本件建物を売却した場合の節税対策につき相談をもちかける内容が記載されているが、右は抽象的な一般論を記述しているに過ぎず、これをもって控訴人に現在本件建物を他に売却する意図があるとまでは推認することはできない。

2  他方、《証拠省略》によれば、(一)被控訴人の家族のうち本件建物には被控訴人とその妻、独身の長男龍彦が同居していること、(二)被控訴人は現在六九歳ないし七〇歳の高齢であり、ホテルオークラのナイトマネージャーとして定職を有するものの高額の収入を得ているのではないうえ、被控訴人の家族は被控訴人の収入で生活していること、(三)被控訴人には他に持ち家等はなく、他に居住場所を求めるとすれば多額の支出を余儀なくされること、(四)長男龍彦は躁鬱病に罹患していること、(五)被控訴人の家族三人が本件建物に居住しており、被控訴人らにとって本件建物は生活維持のため必要性が高いものであることが認められる。

3  以上1、2の当事者双方の事情に比較すると、控訴人の側の自己使用の必要性等が被控訴人の側の居住の必要性等を上回っているとまでは認められず、右の事由のみでは控訴人の更新拒絶に正当事由があるとまで認めることはできない。

四  そうすると、控訴人の主位的請求は理由がない。

第二予備的請求について

一  請求原因4の事実は、記録上明らかである。

二  そして、控訴人の右立退料申出は裁判所の決定する額の立退料を支払う趣旨をも包含するものと解されるところ、これと前記認定の控訴人らが本件建物に居住する必要性等と、被控訴人の居住の必要性等を総合して比較検討すれば、控訴人申出に係る金三〇〇万円を上回り、かつその申出額と格段の相違のない範囲の額である金五〇〇万円の立退料を提供することにより、更新拒絶の正当事由を具備するに至るものと認めるのが相当である(なお、控訴人は平成元年七月二五日の当審第三回口頭弁論期日において、立退料提供による予備的請求を撤回する旨主張しているが、被控訴人は右予備的請求の撤回に同意していないから、右撤回は有効なものとは認められない。)。

三  右に認定したところによれば、控訴人の正当事由を具備した更新拒絶は右昭和六二年一二月一七日においてなされていたということになるが、右は借家法(以下「法」という。)二条一項所定の期間を遵守しておらず適法な更新拒絶があったとは認められないから、本件賃貸借契約は昭和六三年六月一四日以降期間の定めのない契約として存続するものというべきである。

このように、期間の残存する賃貸借契約において、その期間満了前に法二条一項所定の期間は遵守していないが正当事由は具備する更新拒絶がなされた場合、どの時点において賃貸借契約が終了するかが問題となるが、法三条が期間の定めのない賃貸借契約の借家人に六か月間の立退準備期間を保証している趣旨に鑑みれば、右更新拒絶から法定の解約申入期間六か月を経過した時点に賃貸借契約は終了するものと解すべきである。これを本件についてみると、前認定のとおり本件賃貸借契約は、被控訴人の後記抗弁が認められない限り、控訴人が被控訴人に対し立退料を提供する旨申し出た昭和六二年一二月一七日から六か月を経過した昭和六三年六月一七日に終了したものというべきである。

四  抗弁(更新の合意)について

被控訴人は、昭和六一年八月ころ控訴人と昭和六三年一〇月以降も賃料を金一〇万円に改定したうえ本件建物を相当期間賃貸する旨合意したと主張するので検討する。

《証拠省略》によると、昭和六一年八月ころ、控訴人と被控訴人が昭和六一年一〇月分からの賃料を月額金九万円に改定した際、控訴人が被控訴人に対し手紙で、二、三年内に本件建物の明渡ができないときは昭和六三年一〇月分からの賃料を一〇万円に増額のうえ本件建物賃貸借契約を継続したい旨の申し入れをし、これに対して被控訴人が控訴人に対し、本件建物の明渡は不可能であり、昭和六三年一〇月以降月額一〇万円の賃料による本件建物賃貸借契約の継続を選択する旨の意思を表明したことが認められる。しかし、他方、《証拠省略》によると、(一)本件賃貸借契約期間の更新は期間満了の二か月前になすことになっており、その更新期間は昭和六三年六月一二日からとなっていること、(二)控訴人は被控訴人に対し昭和六一年一一月、昭和六三年六月をもって本件賃貸借契約を終了させてほしい旨申入れていること、(三)被控訴人が控訴人に対し、昭和六三年一〇月分の改定賃料として金一〇万円を送金したところ、被控訴人は受領を拒絶したこと等の各事実を認めることができる。右によれば、昭和六三年一〇月分以降の本件建物の賃料を金一〇万円に増額したい旨の前記控訴人の申入れは、被控訴人が本件建物を明け渡せない場合の賃料増額の予定を示した程度のものと解するのが相当であり、前記のやりとりを捉えて、控訴人と被控訴人とが昭和六一年八月ころに賃料を金九万円に改定した際に、同時に金一〇万円の賃料で本件賃貸借契約を昭和六三年六月以降も更新する旨の合意があったものとまで認めることはできず、他に被控訴人の抗弁事実を認めるに足る証拠はない。

五  そうすると、控訴人の予備的請求は、控訴人が被控訴人に金五〇〇万円を支払うのと引換えに本件建物の明渡及び昭和六三年六月一八日から右明渡済みまで一か月金九万円の割合による賃料相当損害金の支払を求める限度で理由があるが、その余は理由がない。

第三結論

以上の事実によれば控訴人の本件主位的請求は理由がないから棄却し、本件予備的請求は右に認定した限度で理由があるから認容し、その余は失当として棄却すべきものである。

よって、これと結論を異にする原判決は失当であるから右のとおり変更し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九五条を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 渡辺剛男 裁判官 小林崇 松田俊哉)

〈以下省略〉

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